2017年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2014.06.18 (Wed)

手紙。

不信。の続き。


5年生になり、担任はベテランの女性教諭でした。
この時期、子ども達は心身ともに大きく成長してゆきます。特に女の子は成長の速度が早く、精神的にもかなり大人びてきます。
その中でまおは、ゆっくりでのんびりで。学習面ではきちんとついていけるようになっていたものの、精神面では他の女子達についていけない場面もあったようでした。

ノートに落書きをされたり、物が無くなったり。
小さな事ですが、親として見過ごせないことがちょくちょくありました。

私も、中学の頃に男子生徒にいじめられた時期がありました。
物を取られたり、廊下ですれ違いざまに容姿を悪し様にけなされたりあからさまによけられたり。
そんな時、私は自分がそんな事をされていると、親に話すことは出来ませんでした。兄弟姉妹もいなかったし、同級生の中には私がそんな風に扱われていることを知っていた人もいたと思いますが、私は平気なふりをしていたのでそれほど深刻な問題に思われずにいたかもしれません。
苦しくても悲しくても、自尊心とプライドが、悲しいと声をあげさせませんでした。

まおはどうなのだろう。
けれど自分の体験から、自分が嫌な思いをしていることを声にして話すというのがとても勇気がいることだとわかっていました。
学校から帰ってきたまおの顔色を見て、さり気なくノートや持ち物を点検する毎日が続いていた頃、義姉から電話をもらいました。
義姉の次男Aくんは、まおと同じ小学校で1学年上だったのですが、いとこのまおを注意深く見てくれる優しい男の子です。
そのAくんのお友達もまた、まおのことを「友達のいとこ」という目でよく見ていてくれていました。

「Aの友達のお母さんから電話があったんやけど。。」と義姉。

その内容は、
掃除の時間、Aくんのいとこちゃん(まお)が学校の昇降口で1人ほうきで掃除をしていた。
同じ掃除担当と思われる女子数人がやってきて、まおに暴言を吐き掃除をほっぽり出して帰ってしまった。
まおは黙って下を向いていた、これはいじめじゃないのか?と、息子から相談された。
というものだったそうです。

義姉はそのお母さんに
「まおちゃんのお母さんに話してみる。ありがとう」
と電話を切り、そのまま私に電話をくれました。
まおは大人がいないところでも、いとこやそのお友達に守られていました。

「まお、こういう話がママに来たんやけど、どうなん?」
その夜私は、まおにそう聞きました。
「あー、うん。。。」まおは少し困ったようにうなづきました。
家では明るくうるさいぐらいお喋りなまおが、学校では辛い目にあっている。まるで自分の小さな頃を見るようで、胸がいっぱいになりました。
「まお、言いにくいことや言葉にしにくいことは、ママにお手紙にしてくれへん?ママに手渡してくれてもいいし、まおの枕元に置いておけば、ママがまおの寝顔を見に行くとき必ずわかるから」
と提案すると、
「うん、そうしよか」とあっさり承諾しました。
そしてそのとき、その手紙には
「学校の先生にママから言って欲しい時にはそう手紙に書く」と決まりを作りました。その代わり、その記述が無い時には勝手に担任にママから話したりはしない、と。

最初のうちは、構えてしまって書かないかもしれないと思い、私のほうから娘に宛てて手紙を書きました。

「今日、パパに◯◯って何?て聞いたら、おまえそんな事も知らんのか?みたいな返事されてん。
そんなんしゃーないやんなー」
とか、内容はくだらないものでしたが、こんな事でも書いていいんやと言うことを知って欲しかったのです。

ポツリポツリと、断続的に手紙のやり取りが続いたある日、学校から帰ってきたまおが、私のお店のドアを開けて
「これ!読んで!」と便箋を手渡しました。顔は真っ赤。
何かあったんだな、とわかりましたが、
「わかった。返事は夜でいいの?読んだら呼ぼうか?」
と聞くと、読んだら呼んで欲しいと言うので、手のあいていた私は早速読み始めました。

続きます。
17:11  |  もやもや病。  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2014.04.29 (Tue)

不信。

失敗のはじまり。の続き

学習の面で、私の心は焦るばかり。
そうこうしながらも、100ます計算のタイムは4分ほどにまで縮まっていきました。

3年生になり、担任は若い男性教諭に。
ほどなく、その教諭は学校に来なくなりました。様々な噂が飛び交いましたが、結局学校側からは詳しい説明もないままついに学年が終了するまで1度も教壇には立たれませんでした。
授業は教頭先生が行なって下さいましたが。

その頃になって私はようやく
「このままでいいのだろうか」と思うようになっていました。
100ます計算、くもん。
単純な計算を繰り返すことで集中力を養う。
それで劇的な変化をみせる子供たちがいる。それは現実。
でも、果たしてそれはまおにとって適しているんだろうか。

もっといい勉強法があるのではないか。似たような子供たちは、どのような方法で勉強しているのだろうか。もやもや病の子どもたちは、どうしているのだろう。
病院で知り合った、いわゆるママ友とも情報交換は欠かせません。
学習の仕方、育て方、叱り方、もやもや病や難病連合の勉強会にも出かけました。

その中で「ADHD」や「LD」の専門医が開く勉強会が行われるという情報が、私に届きました。
日常の中で、アンテナをフルに立てていると、様々な情報が飛び込んできます。
それを自分にとって、何が必要で何が不必要かを選びとる事はとても大切なことでした。
ただこの勉強会は、私とまおにとってとても有意義なものでした。
手術をしてからしばらくして、まおは知能検査なども一通りしましたが言語や作動など、特に飛び抜けて数値のばらつきもありません。
得意なこと、好きなことを中心に伸ばしてやりたい。
でもだからと言って、苦手なことや出来ないことに目をつぶるには、まおはまだ小学生。早すぎる。

やり方を変えていこう。

勉強会から帰った夜、私はまおに尋ねました。
「くもんは、どう思う?」
「100ます計算は?」
まおの答えは
「計算問題がずらっと並んでいると、どれをやっているのかわからなくなる。そのうち違うことを考えてしまう」
「100ます計算も、なにをやっているのかわからなくなる」

ここは頑張り時なのだろうか。
もっともっと慣れてくれば、集中して出来るようになるのだろうか。

私が出した答えは、否。

その翌日から、朝夕の100ます計算とくもん式塾はやめました。
その代わりに、自宅から歩いて5分足らずの個別型塾に、週1度通うことにしました。
家庭では、日能研の通信教育をとり、「考える学習」に切り替えました。
塾は先生が比較的若く、ほぼつきっきりで教えて下さるので、学校で勉強したことを復習するにはピッタリでした。
日能研の通信教育はさすがにレベルが高く、まおにはちんぷんかんぷんでした。
それでも、ただただ単純計算を繰り返すよりも、図形を展開したり文章問題を読んで解くほうが、まおには合っていたのかもしれません。

小さなステップを登る気持ちで。

ほとんど答えに近いヒントを出してやりながら、正解を出した時には大きなマルを描き思い切り褒めました。

少しづつ、少しづつ、まおは変わっていきました。
学習方法が良かったのか。
脳血流が安定してきたのか。
とはいえ、相変わらずぼんやりすることも多く、同級生と比べると小柄で幼いまお。
性格は明るく穏やかで、多少鈍いところもありました。

4年生になった時、担任は前年度の不登校教諭がそのまま担任に。
新学年最初のクラス保護者会が紛糾したのも当然のことです。
「公立の学校では、校長の権限で教師を首にすることは出来ない」
「なぜ出て来ないかという理由は、プライバシーに関わるので教えられない」
というのが校長先生の言いぶんでした。
「なぜ出て来ない教師をわざわざ担任にしなければならないのか」
「生徒は欠席する時に連絡帳に休む理由を書くのに、教師という責任ある立場の人が欠席の理由を説明しないのはなぜなのか」
保護者も必死でした。

担任代理の教頭先生は、とても熱心でいい先生でしたが、公立小学校というのはこれほど教育に対して緩いものなのか。

私もまおと同じ小学校出身でしたが、当時から身体の弱かった私にたくさんの先生が真剣に向き合って下さったことを、今でもよく覚えています。
水泳を止められ、炎天下の中、お友達のバスタオルを持ちながら2時間プールサイドで見学をしていた私に
「プール、入りたいよな」
といつも声をかけてくれたO先生。
「僕がつきっきりで監督します!プールに入れてやって下さい!」
と、校長先生に涙ながらに直談判して下さいました。
運動が出来なかった私に
「愛ちゃんは本を読むのが好きだから、作文が上手やね」
と、みんなの前で褒め言葉をかけて下さったS先生。
あの頃の教育を、あの頃の学校の居心地を、求めるのはもうだめなのか。。。

私と学校の距離は、どんどん離れていきました。

続きます。
22:35  |  もやもや病。  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2014.02.11 (Tue)

失敗のはじまり。

手探りの学習。の続き

もやもや病の手術をしても、効果がすぐにあがる訳ではありません。
成長期のまおの脳血管は、急速に変化を遂げていきます。
手術をする前よりも頻繁に発作が出たり、今まで出なかった症状が出る時期でもありました。
一進一退というよりは、悪くなっていってるのではないかと、不安な毎日。
血液をサラサラにしようと、お茶の中では一番効果の高いと言われる麦茶を飲ませ、玉ねぎや青魚もどんどん食べさせました。
親が出来ることは限られている、でもそこで諦める訳にはいきません。

学習面でもそうでした。
集中力をつけないと、みんなの学習スピードについていけない。
色々と考えているうちに、当時注目され始めていた陰山英男先生の100ます計算を見つけました。

ここからの話しは、結果的には私の失敗体験です。

100ます計算というのは、縦横に1から0までの数字を書いてそれを足した数をマスに書いていきます。
単純な計算を繰り返すうちに、脳の活性化が行われて、陰山英男先生の学校に通う生徒たちに目覚ましい効果が出たという話題の学習方法でした。
最初は5分、7分とかかっていた子どもが、毎日朝晩やるうちに1分を切るようになる。
それと同時に集中力が付き計算力が付き、国語や他の教科までもいい結果を出すことが出来る。
「これだ!」
私は思いました。
単純な計算を繰り返すと集中力があがる、というのは合点がいきましたし、1ケタの足し算ならまおにも容易に出来る。

勉強が出来る様に、点数が上がるように。そんなことは関係ありませんでした。
集中力をつけないと。
陰山先生の本を購入し、我が家なりのやり方を模索しました。本には
「このようにしてやった結果、成績アップ!」といったような成功談と、いきいきした子どもと両親の写真がたくさん載っています。
「100ます計算のタイムが縮まってくるにつれて、子どもの学習意欲が高まった」
「タイムを計るのが楽しみ」

そうなのだろうか。まおにも出来るのだろうか。

お絵描きが好きなまおに、普段から自由帳をたくさん買っていました。
その中から可愛いものを選び、私がますを書き込みます。ランダムに数字を当て込み、日付と時間を書けるように枠を作りました。
まおにやり方を説明します。
最初は時間を気にせず、ひとつづつますを埋めることを根気良く続けました。
朝の登校前、夕方の晩ご飯前に1日2回。終わったら答えを合わせ、時間を書き込み花マルをつけてシールを貼ります。
まおの様子を見ていると、3段目くらいから鉛筆が止まります。
わからない訳じゃない、でも集中が続かない。
机の端をとんとん、と叩いてやると、はっとしてまたノートに目を落とす。その繰り返し。
時間を計ると、10分かかることもしばしばでした。焦らない、焦らないと自分に言い聞かせてはみるものの、一向に改善されません。

本に書いてあるように、こんなことを何ヶ月か続けていけば集中力があがるのだろうか。
そんな期待とは裏腹に、タイムはどんどん遅くなっていきました。
学校での様子も、
プリントを時間内に仕上げられない
連絡帳を書き写す時間が間に合わない
お帰りの支度も一番遅い

友だちと仲良く遊ぶまお。
お絵描きに興じるまお。
パパとおしゃべりを楽しむまお。

なんで?
なんでこんなにうまくいかへんの?
脳外科の東保先生は
「甘やかさない。勉強でも何でもどんどんさせなさい。」
と言う。
でもどんなに頑張っても、まおはこんなに小さくて、結果が全然出ない。。。
私は自分が頑張れば子どもも頑張れる、と勝手に思い込んでいました。さらに、私は自分自身は何一つ頑張ってもないし向上もしてなかったのに、まおに理想を押し付けることをし続けていました。
それを、母親の頑張りだと、勝手に勘違いしていました。

続きます。
23:50  |  もやもや病。  |  TB(0)  |  CM(6)  |  EDIT  |  Top↑

2013.11.06 (Wed)

手探りの学習。

「手術をした年、学校で。」の続き。

平成15年、まおは小学2年生になりました。
担任の先生は丸顔の女性、今の私くらいの年齢だったでしょうか。
1年生の頃から、学校への嫌な先入観があった私は、このK先生のことも斜め見していました。

まおはお支度のペースが遅く、学校から自宅に帰るときによく忘れ物をしてきました。
その度に、私はまおを連れて学校まで歩いて取りに行きました。
その日、宿題のプリントを学校の机の中に忘れてきたというまおは、少し風邪気味だったので、仕方なく私だけ学校まで自転車で取りに行きました。
偶然廊下でK先生に会い、
「こんにちは」と会釈をしてそのまま少し立ち話をする格好になりました。

「まおちゃん、頑張ってますよ」
「そうですか、いつもありがとうございます」
「…今日、まおちゃんから何か聞いてないですか」
「え?なにも。」

まおは1時間目の算数プリントをやる時、全く集中出来ずに鉛筆を持ったままぼんやりし続けていたそうです。
まおちゃん、と声をかけると、はっ!とした顔でまたプリントに向き合うのですが、また数分でぼんやり。
「結局、今日は次の国語や理科の時間も、まおちゃんにはその算数プリントをずっとしてもらったんです」

まおは、一日かけて算数プリントを仕上げたとか。
みんなが他の学習をしている間、一人そのプリントを前に、集中しきれず座っているまお。
前頭葉の血流が足りないと集中力が著しくなくなる為に、そのような事も起こりうることだったのです。
手術をしたとはいえ、前頭葉の手術は成果が出るまでに時間のかかる可能性が高い術式だということも、私にはわかっていました。

「そうですか…。すいませんでした。お友達も迷惑ですよね。すいません。」

私は、そう言うしかありませんでした。一日中同じプリントの前に座っていたまおを思うと、切なくて。

「お母さん、まおちゃん頑張ってるから。もっと目標値を下げて、小さなコマで褒めてあげて。手術してまだ1年も経ってないんやから。」
K先生は、まおがみんなと同じように学習出来るようにと、私がかなり悩んでいることをご存知でした。
「はい」
返事をしながらも、私はもうどうしていいのかわからなくなっていました。

帰り道、私は自転車をこぎながら、泣きに泣きました。人目も気になったのですが、涙が止まらず嗚咽も抑えられませんでした。
あれほど人前で泣いたのは、大人になって初めてだったかもしれません。
手ぶらで学校に行ったので、忘れ物のプリントが1枚、自転車の前かごでペラペラと風にめくられて飛びそうでした。

まおは学校でも一生懸命に、でも苦しんでいたのかもしれない。
怠けてぼんやりしているんじゃない、それは私が一番わかっていたのに。
家でも、宿題を集中してやりなさい!と口うるさく言ってばかりの自分。
集中出来なくて苦しんでたのは、私じゃなくてまおだったのに。
家でも学校でも、まおは身の置き所がなかったのかもしれない。
でも、だからと言って、何もせずにこのままというわけにもいかない。勉強は続けなくてはいけない。

その夜、一日かかったというプリントの問題を全部ノートに書き写してやり、まおにやらせました。
10分もかからず、仕上げました。わからなくてぼんやりしているのではない。
ただ、集中がまだ持続出来ないんだ。
どうすればいいの?

考えても考えても、この時答えを見つけ出すことは出来ませんでした。

その頃、ちまたで注目を集めだしていたのが、陰山英男先生の百ます計算でした。

続きます。
17:49  |  もやもや病。  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2013.09.03 (Tue)

手術をした年、学校で。

「嫌や!」のつづき。

平成15年、1年生の終わり。

まおが通った小学校は、私の母校でもある公立の学校です。
地域でも1,2を争うマンモス校で、素晴らしい先生がたくさんいらっしゃいました。
ただ残念なことに、私の努力不足で、まおの病気について理解して頂けなかった先生もいらっしゃいました。

まおがもやもや病の手術をしたのは、2回とも1年生の時です。
その担任の先生とは、すれ違ってばかりでした。
今思えば、教育のスタート地点である1年生は教えなければいけない事がたくさんあるのでしょう。
入退院を繰り返し、登校して来ても変則的に早退や遅刻をするまおに、構っている時間はなかったのかもしれません。
2度目の手術後、学校に戻ってすぐの頃だったでしょうか。
画用紙に描いた絵の裏に、名前を書くよう言われたにもかかわらず、隣の席の男子とまおは、表に書いてしまいました。
担任教師はそれを見咎めて、
「何をしてるねん!話を聞いてたんか!」
と、2人の頭を思い切り叩いたそうです。
バンダナに包まれていたまおの頭を叩いてすぐ、先生ははっ!として
「ごめん、頭叩いてしもた!」
とおっしゃったらしく、まおは痛いのと叱られた驚きで泣き出し、そのまま脱力発作を起こして倒れ込んでしまいました。

担任から電話をもらいました。
一連の流れと、脱力発作を起こしてしまったことを聞き、私は東保脳神経外科に電話をして受診の旨を告げてから、学校の保健室に向かいました。
保健室では、発作のおさまったまおがソファにちょこんと座っています。
私の顔を見ると、涙をいっぱい目にためたまま、えへへと照れ笑いするまお。
「怒られたらしいやん。」
私はまおの頭を撫でながら、笑いかけました。
「名前かくとこ間違えてん。○○君も。」
撫でた私の手にじゃれつきながら、まおはもう大丈夫やけどなあーと言います。
保健室の先生が担任を呼び、すぐに担任がこられました。
「お母さん、申し訳ありませんでした!手術して間もないのに、よりによって傷口のある頭を叩いてしまって…」
担任は、ベテランの女性教諭です。
私は
「まおが先生の言う事を聞いてなかったんです、すいませんでした。躾が至りませんでした。」
私も頭を下げました。
頭を下げながら、こう思いました。



もう学校には行かせない。
そんなに病気の子どもが面倒くさいのなら、はっきりそう言えばいいねん。


私がそう思うのには、理由がありました。

入院が決まったことを伝えた時、
「お見舞いには行きません。忙しいし、車も無いのでね。」
と開口一番。

入院中、毎日少しづつやった宿題や課題のプリントを提出しようとしても、
「わーみんなこれ、とっくに終わってるやつですよ。まおちゃんのだけまた見る時間ないわあ。」
と、嫌な顔。
「じゃ、私が見て丸付けします」
と言うと
「いやそれはまあ、見ますけどね」
と言ったきり、とうとう返却されずじまい。

「気をつけてあげないといけない事、ありますか」
と聞かれたので
「水分をたくさん摂らないと、脱力発作を起こしやすくなるんです。本人にも、お茶をたくさん飲むように言ってますけど、先生からも声かけを…」
と言いかけると、それを制して
「それは本人さんに気をつけてもらわなしゃーないね」

運動会ではダンスのみ出場して、徒競走には出ないと事前に打合せてたのにもかかわらず、本番では徒競走の列にまおを並ばせ、訳の分からないまおがみんなにつられて走ってしまったこともありました。
「いやぁ、すっかり忘れてた!人数多いからねえ。」

自分にとってまおは、たった1人しかいない宝物。
だけど先生にとっては、何十人もいる生徒の中のほんの1人。
それも、色々と世話のかかる面倒くさい生徒でしかないんやな。

私は、疲れきっていました。私自身が学校と関わることに疲れていました。

夜、まおに聞きました。
「明日、学校に行く?休む?」
「えーなんで?行くで!」

行くのかあ。。。

担任に手紙を書きました。
日頃、お世話をかけていることに対して、感謝をしていること。
保健室でまおを引き取ってから、直接脳外科に連れて行き、大丈夫だと診断を受けたこと。
それは手術をした頭を叩かれたからではなく、泣いて発作が起きたことが心配だったからということ。
そして、今回の件についてはまおが悪かった。本来、先生に謝っていただくようなことではなかった。
が、子どもの頭というのは大変ダメージを受けやすい。
まおに限らず、どんな子どもの頭も叩くことはやめて欲しい。

私は先生にとっては、いい保護者ではありませんでした。
その時、正直に言えば、それまでの事を思い出し、はらわたが煮えくり返る思いでした。
でもまおは学校が好きと言う。
行きどころのない気持ちを何とかして収め、便箋2枚に書き綴って封をして、まおの連絡帳に挟み込みました。

返ってきた返事は
すいませんでした、忙しいのでつい
といったものでしたが。

それでも、学校で脱力発作を起こすたび、小柄なその担任の先生はまおをおんぶして保健室に連れて行ってくださいました。
丸坊主頭にバンダナを巻いているまおを、事情を知らない上級生の男子がからかおうとしたのを知り、その子たちにわかるように諭して下さいました。
親の知らないところで、子どもは先生にお世話になり、迷惑をかけ、手間をとらせていたのです。
当時の私は、自分の子の事で精一杯で、それを理解することが出来ませんでした。
先生にとっては、ずいぶんと愛想のないやりにくい保護者だったと思います。

2年生になり、クラス替えに伴って担任も変わりました。
2年生の担任教諭には、まおの学習方法について色々と気付かされることになりました。

続きます。
17:52  |  もやもや病。  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
PREV  | BLOGTOP |  NEXT
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。