2015.05.09 (Sat)
正解を見つけるために。
冷たい雨。のつづき。
心臓手術は負担の少ないカテーテル手術を、と思っていたのが開胸手術しかできないと言われ。
その手術を受けるための脳血流が足りない。
もやもや病3度目の手術をしなくてはならない。
私の頭の中でぐるぐると回るまとまりのない思考は、24時間ほぼ絶えることなく「母親のおまえが悪いのだ」という言葉に代わって私自身を責め続けました。
また病院探し。。。
心臓手術をする予定の国立循環器センターの先生とは、膝を詰めて話し合いました。
「もやもや病の手術は、どこをお考えですか」
普段はのんびりしている私ですが、娘のまおに関して、ことに病に関してだけは納得出来るまで引かないところがありました。
担当医の先生もそれを充分理解して下さっていたらしく、まずは再々手術の必要性とそれに係るリスク、心臓手術との兼ね合いなどを説明されたあと、前述の質問を私にされました。
「過去2度とも、池田市の東保脳神経外科でしてますので、今回もそちらで」
私としては、もやもや病に関しては一切を東保脳神経外科院長・東保肇先生にお任せしようと固く決意していました。
国立循環器の担当医も、そこは充分承知されていました。ですがこの時は、担当医の先生もひきませんでした。
「今回はそのあと、心臓手術も控えています。心臓手術をうちでするのでしたら、その前のもやもや病手術もうちでされる方がトータルでケアが出来ると私は思います。」
今まで、もやもや病の手術をどこでするかという問題を抱えて病院を回っていた頃は
「もやもや病なら東保先生」という流れがありました。確かにその頃から心臓の問題はあったのですが、私だけでなく係る医師の中でもまだその問題については先の先、遠い未来のような意識だったのです。
けれどこの時は、すぐそこに心臓手術が待っている。そのための脳血管手術。
担当医がおっしゃることも、至極当然のことでした。それに国立循環器センターの脳神経外科といえば全国的にもトップレベルの水準です。
自分は何か見落としているのではないだろうか。こだわりが形を変えて、全体を見渡せてないのではないか。
揺らぎました。
「ちょっと、相談したい方がいますのでいいですか」
「もちろんです、よくお考えになって下さい。」
主人とも何度も話し合いました。
双方の親には全く相談はしませんでした。私たち、とくに病院に足を運ぶ機会が圧倒的に多い私が医療については完璧に把握している。まおにとって一番いい医師、いい病院を探し当てる事に絶対の自信がある。
双方の親にそう思わせることで、まおの病に関して私たちへの信頼と安心を与えようと思ったからです。
ただでさえ祖父母という存在は、孫の病に対して耐性が低いです。
オロオロし、なにもしてやれないと気に病み、自分まで具合が悪くなったりします。
それよりは、孫が病気で手術もしないといけないらしいが、子ども達がインターネットや病院訪問などで情報を集めているらしい。あの子達に任せていれば、一番いい病院を探してくれるだろうからそれを待とう、と思わせてあげたかったのです。
最初にまおの発作を相談して、最初にもやもや病の疑いを指摘して下さった兵庫医大小児科の前 寛医師。
近所のホームドクター。
もやもや病の患者と家族の会事務局。
そのほかにも、インターネットでもやもや病の専門医がいる病院を調べていたので、ホームページに質問フォームがあるところには全てメールを送りました。
返事を頂けるところ、頂けなかったところ、様々でした。
その中でとある方の回答が私の腹を決めさせました。
「もやもや病の方が何がしかの手術を行う場合、麻酔の管理が重要となります。その中で、この先もやもや病と心房中隔欠損の手術を連続して行うのであれば、麻酔科のトータルケアが受けられる方法が理想です」
数日悩み、私たちは結論を出しました。そして、東保医師にメールを出しました。
「今回、心臓手術をすぐ先に控えていることも鑑みて、もやもや病の手術は国立循環器でして頂こうと思います」
1日待たずに、返信がありました。
「それがベストと思います。国立循環器の脳神経外科には、宮本亨医師をはじめ優秀な医師がおられます。」
宮本亨先生は、東保先生と同じくもやもや病の治療に関して患者会の中でも絶大の信頼を置ける医師です。
ですが、宮本先生に執刀していただけるかどうかはわかりません。
個人病院とは違う、大きな病院では執刀医を選べるのだろうか。
日頃「全国にもやもや病の専門医を増やして、治療を受ける側が最寄りの医療機関で受診できるように」と考えていると言っておきながら、我が子の手術はやはり、高名な医師に執刀してもらいたい。
そんなエゴに押しつぶされそうになりながらも、とにかく手術を受ける病院を決めることが出来たのです。
続きます。
心臓手術は負担の少ないカテーテル手術を、と思っていたのが開胸手術しかできないと言われ。
その手術を受けるための脳血流が足りない。
もやもや病3度目の手術をしなくてはならない。
私の頭の中でぐるぐると回るまとまりのない思考は、24時間ほぼ絶えることなく「母親のおまえが悪いのだ」という言葉に代わって私自身を責め続けました。
また病院探し。。。
心臓手術をする予定の国立循環器センターの先生とは、膝を詰めて話し合いました。
「もやもや病の手術は、どこをお考えですか」
普段はのんびりしている私ですが、娘のまおに関して、ことに病に関してだけは納得出来るまで引かないところがありました。
担当医の先生もそれを充分理解して下さっていたらしく、まずは再々手術の必要性とそれに係るリスク、心臓手術との兼ね合いなどを説明されたあと、前述の質問を私にされました。
「過去2度とも、池田市の東保脳神経外科でしてますので、今回もそちらで」
私としては、もやもや病に関しては一切を東保脳神経外科院長・東保肇先生にお任せしようと固く決意していました。
国立循環器の担当医も、そこは充分承知されていました。ですがこの時は、担当医の先生もひきませんでした。
「今回はそのあと、心臓手術も控えています。心臓手術をうちでするのでしたら、その前のもやもや病手術もうちでされる方がトータルでケアが出来ると私は思います。」
今まで、もやもや病の手術をどこでするかという問題を抱えて病院を回っていた頃は
「もやもや病なら東保先生」という流れがありました。確かにその頃から心臓の問題はあったのですが、私だけでなく係る医師の中でもまだその問題については先の先、遠い未来のような意識だったのです。
けれどこの時は、すぐそこに心臓手術が待っている。そのための脳血管手術。
担当医がおっしゃることも、至極当然のことでした。それに国立循環器センターの脳神経外科といえば全国的にもトップレベルの水準です。
自分は何か見落としているのではないだろうか。こだわりが形を変えて、全体を見渡せてないのではないか。
揺らぎました。
「ちょっと、相談したい方がいますのでいいですか」
「もちろんです、よくお考えになって下さい。」
主人とも何度も話し合いました。
双方の親には全く相談はしませんでした。私たち、とくに病院に足を運ぶ機会が圧倒的に多い私が医療については完璧に把握している。まおにとって一番いい医師、いい病院を探し当てる事に絶対の自信がある。
双方の親にそう思わせることで、まおの病に関して私たちへの信頼と安心を与えようと思ったからです。
ただでさえ祖父母という存在は、孫の病に対して耐性が低いです。
オロオロし、なにもしてやれないと気に病み、自分まで具合が悪くなったりします。
それよりは、孫が病気で手術もしないといけないらしいが、子ども達がインターネットや病院訪問などで情報を集めているらしい。あの子達に任せていれば、一番いい病院を探してくれるだろうからそれを待とう、と思わせてあげたかったのです。
最初にまおの発作を相談して、最初にもやもや病の疑いを指摘して下さった兵庫医大小児科の前 寛医師。
近所のホームドクター。
もやもや病の患者と家族の会事務局。
そのほかにも、インターネットでもやもや病の専門医がいる病院を調べていたので、ホームページに質問フォームがあるところには全てメールを送りました。
返事を頂けるところ、頂けなかったところ、様々でした。
その中でとある方の回答が私の腹を決めさせました。
「もやもや病の方が何がしかの手術を行う場合、麻酔の管理が重要となります。その中で、この先もやもや病と心房中隔欠損の手術を連続して行うのであれば、麻酔科のトータルケアが受けられる方法が理想です」
数日悩み、私たちは結論を出しました。そして、東保医師にメールを出しました。
「今回、心臓手術をすぐ先に控えていることも鑑みて、もやもや病の手術は国立循環器でして頂こうと思います」
1日待たずに、返信がありました。
「それがベストと思います。国立循環器の脳神経外科には、宮本亨医師をはじめ優秀な医師がおられます。」
宮本亨先生は、東保先生と同じくもやもや病の治療に関して患者会の中でも絶大の信頼を置ける医師です。
ですが、宮本先生に執刀していただけるかどうかはわかりません。
個人病院とは違う、大きな病院では執刀医を選べるのだろうか。
日頃「全国にもやもや病の専門医を増やして、治療を受ける側が最寄りの医療機関で受診できるように」と考えていると言っておきながら、我が子の手術はやはり、高名な医師に執刀してもらいたい。
そんなエゴに押しつぶされそうになりながらも、とにかく手術を受ける病院を決めることが出来たのです。
続きます。
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2015.04.07 (Tue)
冷たい雨
転機。の続き
幼稚園から高校まである、小さな小さな私立女子校に入学したまお。
先生方とは何度も話をして、もし発作が起きたらどうするか、運動はどの程度まで出来るのかを、詳しく取り決めました。
受験するまでに、何校も訪ねて広報の先生からお話を聞くことが出来ましたが、最終的にこの学校を受験すると決めたのはきめ細やかな対応でした。
担任の先生は、私と同世代の男性教諭。とても親身に考えて下さる先生でした。入学してしばらく経った頃に、お電話を頂きました。
「まおさんの病気について、クラスで話をしました。まおさんが運動にかなり制限が伴うことで、1学期に行う体育祭のグループ分けについて少し問題が生徒達の間で出ています」
とのこと。
チーム分けをして、他クラスや他学年と点数を競う種目があるのですが、まおが同じチームになると点数が伸びないのではないか、という事でした。
「なるほど、そうですよね」
私はうなずくしかありません。運動会に出ないという選択を迫られるのか、と暗澹たる気持ちになりながら聞いていました。
「そこで、生徒達が『まおをフォローする最強メンバーを、それぞれの種目につけよう』というプランを考えました。他にも運動が苦手という子がいるので、得意な子たちとうまくチームを作っていくことになりました。なので、練習も頑張ってもらって優勝を狙います!」
そこまで率直に教えてくださった先生のお気持ち。
まおがグループ分けの事で肩身の狭い思いを持たないよう、私にもその過程を説明することで家でもきちんと根拠ある励ましをすることが出来ました。
同じ小学校から一緒の中学に入った子は1人だけでした。
知らない人ばかりの中で、最初の頃はなかなか打ち解けられなかったまお。それでも少しづつ同じ方向に帰るお友達が出来、クラブに入部してからはとても生き生きと学校に行くようになりました。
心臓の手術をいつにするか。
実はこのブログを書くにあたって、できるだけ時系列を正確にという思いはあるのですが、このころ私は一切覚え書きや日記、手帳の類をとるのをやめています。
心臓手術をカテーテルでできると思っていたのに、開胸手術をしないといけないと聞かされてから、どこか気持ちの中が切れてしまっていました。家族の中でどれほど緻密に考えていても、医学はそれに沿ってくれるわけではないんだ。
全身麻酔をするリスク、身体にメスを入れるリスク、もやもや病への影響。
考えることは悪いことばかり。
何もかもに、萎えていました。
それでも、日は過ぎていきます。
手術の日取りを決めないと…。
中学生になると、定期テストや行事も頻繁にあり、なかなか休めるタイミングがありません。
幸い、国立循環器病センターとまおの学校が近かったので、診察の予約時間ぎりぎりまで学校にいさせることができました。
授業のきりがいいタイミングに合わせて学校まで車で迎えに行き、そのまま国立循環器まで行くのです。
「手術のための検査をします。脳血流も調べておきましょう。」
検査、検査、検査。
検査の予約も外来の予約も、受付時間内に電話でとらなくてはなりません。予約専用電話に何度かけても話し中、ということもざらでした。
やっととれた予約、やっとできた検査。
そして、私たち家族に告げられた言葉。
「心臓手術に耐えられるだけの脳血流がありません。心臓手術の前に、もやもや病の手術をしなくてはいけません」
その夜、私はずっと降り続ける雨を見ていました。
もうどうしたらいいのかわからない。
いつになったらこの辛さから抜けられるのか。
まおになんて説明すればいいのか。
雨はひどく降り、傘を叩く音がすぐ真上から響き、わたしの肩や靴を濡らしていました。
続きます。
幼稚園から高校まである、小さな小さな私立女子校に入学したまお。
先生方とは何度も話をして、もし発作が起きたらどうするか、運動はどの程度まで出来るのかを、詳しく取り決めました。
受験するまでに、何校も訪ねて広報の先生からお話を聞くことが出来ましたが、最終的にこの学校を受験すると決めたのはきめ細やかな対応でした。
担任の先生は、私と同世代の男性教諭。とても親身に考えて下さる先生でした。入学してしばらく経った頃に、お電話を頂きました。
「まおさんの病気について、クラスで話をしました。まおさんが運動にかなり制限が伴うことで、1学期に行う体育祭のグループ分けについて少し問題が生徒達の間で出ています」
とのこと。
チーム分けをして、他クラスや他学年と点数を競う種目があるのですが、まおが同じチームになると点数が伸びないのではないか、という事でした。
「なるほど、そうですよね」
私はうなずくしかありません。運動会に出ないという選択を迫られるのか、と暗澹たる気持ちになりながら聞いていました。
「そこで、生徒達が『まおをフォローする最強メンバーを、それぞれの種目につけよう』というプランを考えました。他にも運動が苦手という子がいるので、得意な子たちとうまくチームを作っていくことになりました。なので、練習も頑張ってもらって優勝を狙います!」
そこまで率直に教えてくださった先生のお気持ち。
まおがグループ分けの事で肩身の狭い思いを持たないよう、私にもその過程を説明することで家でもきちんと根拠ある励ましをすることが出来ました。
同じ小学校から一緒の中学に入った子は1人だけでした。
知らない人ばかりの中で、最初の頃はなかなか打ち解けられなかったまお。それでも少しづつ同じ方向に帰るお友達が出来、クラブに入部してからはとても生き生きと学校に行くようになりました。
心臓の手術をいつにするか。
実はこのブログを書くにあたって、できるだけ時系列を正確にという思いはあるのですが、このころ私は一切覚え書きや日記、手帳の類をとるのをやめています。
心臓手術をカテーテルでできると思っていたのに、開胸手術をしないといけないと聞かされてから、どこか気持ちの中が切れてしまっていました。家族の中でどれほど緻密に考えていても、医学はそれに沿ってくれるわけではないんだ。
全身麻酔をするリスク、身体にメスを入れるリスク、もやもや病への影響。
考えることは悪いことばかり。
何もかもに、萎えていました。
それでも、日は過ぎていきます。
手術の日取りを決めないと…。
中学生になると、定期テストや行事も頻繁にあり、なかなか休めるタイミングがありません。
幸い、国立循環器病センターとまおの学校が近かったので、診察の予約時間ぎりぎりまで学校にいさせることができました。
授業のきりがいいタイミングに合わせて学校まで車で迎えに行き、そのまま国立循環器まで行くのです。
「手術のための検査をします。脳血流も調べておきましょう。」
検査、検査、検査。
検査の予約も外来の予約も、受付時間内に電話でとらなくてはなりません。予約専用電話に何度かけても話し中、ということもざらでした。
やっととれた予約、やっとできた検査。
そして、私たち家族に告げられた言葉。
「心臓手術に耐えられるだけの脳血流がありません。心臓手術の前に、もやもや病の手術をしなくてはいけません」
その夜、私はずっと降り続ける雨を見ていました。
もうどうしたらいいのかわからない。
いつになったらこの辛さから抜けられるのか。
まおになんて説明すればいいのか。
雨はひどく降り、傘を叩く音がすぐ真上から響き、わたしの肩や靴を濡らしていました。
続きます。
2014.10.28 (Tue)
転機。
「回り始めた歯車」の続き。
まおの小学校生活もあと半年となった頃、心臓手術のための精密検査を受ける順番が回ってきました。
とは言え、手術をすること自体は決まっているのです。
検査を受けることで、一歩進む。
もやもや病と違って、心房中隔欠損症は手術で治すことができるのです。しかも、カテーテル手術という負担の少ない画期的な方法で!
まおはこの頃になると、クラスのお友達にも恵まれて毎日楽しそうでした。言いつけを守らなかったりのろま番長で、雷を落とすことも日々ありましたが、怒られてもすぐにケロッとした顔で楽しいお喋りを始めるまお。まおの明るさが、私たちの励みでした。
検査入院には、一応中学受験のための勉強道具も持ち込みました。
「空いてる時間には、勉強しなあかんでー」
「うん、わかった~」
……その顔は、する気ないやろ~
苦笑いをする私たちを尻目に、早くも同室になった人たちと仲良くなってお喋りをし始めるまおを見ながら、本当にここまでよく頑張ったあとひと息やからね、と、心の中で声をかけずにはいられませんでした。
泊りがけの精密検査を終え、検査結果を聞きに行く日、私は手術から受験までのスケジュールを丹念に逆算して計算をしました。
受付をしてから呼ばれるまで、待合の廊下で随分待たされるのは慣れっこでしたが、その日の国立循環器病センターはやけにすいていたように記憶しています。
診察室に入った私たちを見つめ、担当医はとてもゆっくりと言いました。
「心臓の穴がね。カテーテルでパッチを入れる手術では出来ない位置にあることがわかったんです。
カテーテルでは無理ですね。…開胸手術になります。」
主人も私も、言葉を見つけることが出来ませんでした。
まおは診察椅子に座ったまま、黙っている私の顔を見上げました。
「先生。。。カテーテルで出来るって、おっしゃいましたよね。。」
ようやく出た言葉は、担当医を責めるような言葉でした。
「うん…穴自体はそれほど大きくなかったんですけどね。穴の位置が心臓の壁2面の狭間に開いてたので、それではパッチで挟めないんです。
パッチの挟みしろが無いんでね」
私はもう、言葉が出て来ませんでした。開胸手術が嫌だからこんなに待ったのに。
カテーテル手術が国の認定を受けるまで、待ち続けたのに。
「傷が…傷が付くのが嫌なんです。だからカテーテル手術にこだわったんです」
「わかってます、それは私もわかってます」
担当医の先生にも、何度も話したことでした。先生もどれほど私に話しにくかったでしょうか。
「手術跡も、今はかなり綺麗になります。わからないぐらいになります。それに、手術跡はまおちゃんが頑張って手術に耐えた勲章ですよ。」
「手術はいつ頃お考えですか」
「考えさせて下さい。。。もやもや病のこともあるし、中学受験もさせるので、タイミングが…」
「そうですか…。ではまた、改めて来てもらえますか。」
帰りの車の中、後部座席に座った私は瞬きもしないのに文字通り涙がボロボロとこぼれてきました。
しゃくり上げるでもなく、鼻をすするでもなく、運転席の主人にも助手席のまおにも気づかれることなく、私はただただ涙を落としました。
開胸手術になれば、身体にはかなりの負担がかかります。何よりも、もやもや病で一番気がかりなのは麻酔でした。麻酔の管理がうまくいかなければ、血液の中の二酸化炭素が減り、そこから発作につながります。
そして、同じように心臓手術を受けた自分自身の胸の手術痕。
スクール水着や少しでも襟のあいた服を着ればその痕が見え、それを気にするあまり卑屈になっていた自分。からかわれたりいじめられたりした子供時代を経て、大人になってからもずっと、服を選ぶ基準はそこにありました。
不自由で、バカバカしいと思うのに、その羞恥は永遠に私を捉え続けるのです。
そんな思いをまおにさせるのが嫌で、カテーテル手術を今日まで糧にしていたのに。
結果的に、心臓手術はその日から半年以上も後になりました。
中学受験を経て、山の上に建つ小さな女子校に通うようになったまお。
大きなカバンを持ち、大きめの制服に身を包んだまおを見送るたび、このまま時が静かに過ぎて行ってくれたらいいのに、と思うばかりでした。
続きます。
まおの小学校生活もあと半年となった頃、心臓手術のための精密検査を受ける順番が回ってきました。
とは言え、手術をすること自体は決まっているのです。
検査を受けることで、一歩進む。
もやもや病と違って、心房中隔欠損症は手術で治すことができるのです。しかも、カテーテル手術という負担の少ない画期的な方法で!
まおはこの頃になると、クラスのお友達にも恵まれて毎日楽しそうでした。言いつけを守らなかったりのろま番長で、雷を落とすことも日々ありましたが、怒られてもすぐにケロッとした顔で楽しいお喋りを始めるまお。まおの明るさが、私たちの励みでした。
検査入院には、一応中学受験のための勉強道具も持ち込みました。
「空いてる時間には、勉強しなあかんでー」
「うん、わかった~」
……その顔は、する気ないやろ~
苦笑いをする私たちを尻目に、早くも同室になった人たちと仲良くなってお喋りをし始めるまおを見ながら、本当にここまでよく頑張ったあとひと息やからね、と、心の中で声をかけずにはいられませんでした。
泊りがけの精密検査を終え、検査結果を聞きに行く日、私は手術から受験までのスケジュールを丹念に逆算して計算をしました。
受付をしてから呼ばれるまで、待合の廊下で随分待たされるのは慣れっこでしたが、その日の国立循環器病センターはやけにすいていたように記憶しています。
診察室に入った私たちを見つめ、担当医はとてもゆっくりと言いました。
「心臓の穴がね。カテーテルでパッチを入れる手術では出来ない位置にあることがわかったんです。
カテーテルでは無理ですね。…開胸手術になります。」
主人も私も、言葉を見つけることが出来ませんでした。
まおは診察椅子に座ったまま、黙っている私の顔を見上げました。
「先生。。。カテーテルで出来るって、おっしゃいましたよね。。」
ようやく出た言葉は、担当医を責めるような言葉でした。
「うん…穴自体はそれほど大きくなかったんですけどね。穴の位置が心臓の壁2面の狭間に開いてたので、それではパッチで挟めないんです。
パッチの挟みしろが無いんでね」
私はもう、言葉が出て来ませんでした。開胸手術が嫌だからこんなに待ったのに。
カテーテル手術が国の認定を受けるまで、待ち続けたのに。
「傷が…傷が付くのが嫌なんです。だからカテーテル手術にこだわったんです」
「わかってます、それは私もわかってます」
担当医の先生にも、何度も話したことでした。先生もどれほど私に話しにくかったでしょうか。
「手術跡も、今はかなり綺麗になります。わからないぐらいになります。それに、手術跡はまおちゃんが頑張って手術に耐えた勲章ですよ。」
「手術はいつ頃お考えですか」
「考えさせて下さい。。。もやもや病のこともあるし、中学受験もさせるので、タイミングが…」
「そうですか…。ではまた、改めて来てもらえますか。」
帰りの車の中、後部座席に座った私は瞬きもしないのに文字通り涙がボロボロとこぼれてきました。
しゃくり上げるでもなく、鼻をすするでもなく、運転席の主人にも助手席のまおにも気づかれることなく、私はただただ涙を落としました。
開胸手術になれば、身体にはかなりの負担がかかります。何よりも、もやもや病で一番気がかりなのは麻酔でした。麻酔の管理がうまくいかなければ、血液の中の二酸化炭素が減り、そこから発作につながります。
そして、同じように心臓手術を受けた自分自身の胸の手術痕。
スクール水着や少しでも襟のあいた服を着ればその痕が見え、それを気にするあまり卑屈になっていた自分。からかわれたりいじめられたりした子供時代を経て、大人になってからもずっと、服を選ぶ基準はそこにありました。
不自由で、バカバカしいと思うのに、その羞恥は永遠に私を捉え続けるのです。
そんな思いをまおにさせるのが嫌で、カテーテル手術を今日まで糧にしていたのに。
結果的に、心臓手術はその日から半年以上も後になりました。
中学受験を経て、山の上に建つ小さな女子校に通うようになったまお。
大きなカバンを持ち、大きめの制服に身を包んだまおを見送るたび、このまま時が静かに過ぎて行ってくれたらいいのに、と思うばかりでした。
続きます。
2014.08.07 (Thu)
回り始めた歯車
モンスター?の続き
6年生になり、クラス替えがあったことでまおの周囲も変わりました。
「私立を受験させる」
もやもや病がわかった小学1年生の時から、私はそう決めていました。
高校受験の頃にもしも発作が出たり、脳血流が足りなくなって再手術を迫られるようなことがあったら、受験どころではなくなる。
ダメ元で、中高一貫校を受験させて、とりあえず進学の心配をなくしておきたい。
まおにも説明しました。
お友達と同じ中学に進みたい、と言ったこともありましたが。。。
バリバリの進学校や名門と呼ばれるところよりは、のんびりと心を育んでくれる学校を探しました。
そしてこの先、身体や心の事でまおが悩んだ時、親にも誰にも言えない悲しみや苦しみを抱えた時、それでも自分はひとりきりではないと絶対的な安心を持って欲しくて、ミッションスクールを選びました。
機嫌や状況に囚われない、どんな逆風の中にも神様という絶対的な味方がいるのだという心の平安を、まおに教えてあげたかったのです。
とは言え、私はクリスチャンでも何でもないのですが…。
自分自身が、ミッションスクールに通っていたので、馴染みがあったのかもしれません。
実際、孤軍奮闘の過去の日も
「誰にわかってもらえなくてもいい。神様という私の味方は、どんな事があっても私の内から去ることはない」
と思い、耐えることが出来たのです。
まおの学力、通学時間などを考慮して数校選び、塾の先生に助けて頂きながらその学校の広報担当の先生に個別相談に行きました。
まおの病気のこと、この先長期入院があるかもしれないこと、学校側の体制など、聞きたいことはたくさんありました。
3校ほど回り、「この学校がいいな」という学校に巡り逢うことが出来ました。その他の学校でも、先生方はとても親身に、そして正直に話をして下さいました。
その後オープンキャンパスなどでまおも数校回り、私が「いいな」と思った学校をまおも気に入ってくれました。
受験校も決まり、私達家族も何となく安堵した頃、心臓のカテーテル手術が国の認定を受けて、指定病院で手術を受けることができるという知らせが舞い込んできました。
待ちに待った知らせでした。カテーテル手術ならば、傷もほんの少し足の付け根に付く程度。
1~2週間の入院で済むし、身体への負担もごく軽い。
中学受験を前に、全てがいいリズムで回り出したように感じました。
早速、外来の予約をとって国立循環器センターを受診。待合室はいつもよりたくさんの患者で溢れていました。
「お母さん、やっと認定がおりましたね」
担当の先生もそう言って下さいましな。
「ありがとうございます」
手術をしないといけない、と言われた当時は、このお医者様を筋違いも甚だしく憎んだことすらありました。そんな患者家族を、先生は辛抱強く待って導いて下さいました。
「手術の前に精密検査をしましょう。心臓に開いてる穴の位置とか大きさとか、手術を前提にね。」
そのあと、
「ただね、認定がおりて全国の患者さんが一気にこの手術を受けたくて病院に来られてるんですよ。
なので検査や手術の予約がとりにくい。ご理解いただけますか」
もやもや病の時もそうでしたが、まおは病院について大変恵まれていました。東保脳神経外科も国立循環器センターも、私の運転で行ける範囲内にありました。
広島から、三重から、埼玉から、北海道から。負担を大きく抱えながら家族ごとで病院に来られる患者さんがたくさんおられる中で、それは本当に感謝すべき事でした。
その感謝を表すために、遠方の患者さんやご家族が来阪しやすい長期休暇を避け、予約をとるようにしているのが常でした。
検査するのが遅れても、秋までに手術が出来れば年明けの中学受験には充分間に合う。
カテーテル手術なら。
続きます。
6年生になり、クラス替えがあったことでまおの周囲も変わりました。
「私立を受験させる」
もやもや病がわかった小学1年生の時から、私はそう決めていました。
高校受験の頃にもしも発作が出たり、脳血流が足りなくなって再手術を迫られるようなことがあったら、受験どころではなくなる。
ダメ元で、中高一貫校を受験させて、とりあえず進学の心配をなくしておきたい。
まおにも説明しました。
お友達と同じ中学に進みたい、と言ったこともありましたが。。。
バリバリの進学校や名門と呼ばれるところよりは、のんびりと心を育んでくれる学校を探しました。
そしてこの先、身体や心の事でまおが悩んだ時、親にも誰にも言えない悲しみや苦しみを抱えた時、それでも自分はひとりきりではないと絶対的な安心を持って欲しくて、ミッションスクールを選びました。
機嫌や状況に囚われない、どんな逆風の中にも神様という絶対的な味方がいるのだという心の平安を、まおに教えてあげたかったのです。
とは言え、私はクリスチャンでも何でもないのですが…。
自分自身が、ミッションスクールに通っていたので、馴染みがあったのかもしれません。
実際、孤軍奮闘の過去の日も
「誰にわかってもらえなくてもいい。神様という私の味方は、どんな事があっても私の内から去ることはない」
と思い、耐えることが出来たのです。
まおの学力、通学時間などを考慮して数校選び、塾の先生に助けて頂きながらその学校の広報担当の先生に個別相談に行きました。
まおの病気のこと、この先長期入院があるかもしれないこと、学校側の体制など、聞きたいことはたくさんありました。
3校ほど回り、「この学校がいいな」という学校に巡り逢うことが出来ました。その他の学校でも、先生方はとても親身に、そして正直に話をして下さいました。
その後オープンキャンパスなどでまおも数校回り、私が「いいな」と思った学校をまおも気に入ってくれました。
受験校も決まり、私達家族も何となく安堵した頃、心臓のカテーテル手術が国の認定を受けて、指定病院で手術を受けることができるという知らせが舞い込んできました。
待ちに待った知らせでした。カテーテル手術ならば、傷もほんの少し足の付け根に付く程度。
1~2週間の入院で済むし、身体への負担もごく軽い。
中学受験を前に、全てがいいリズムで回り出したように感じました。
早速、外来の予約をとって国立循環器センターを受診。待合室はいつもよりたくさんの患者で溢れていました。
「お母さん、やっと認定がおりましたね」
担当の先生もそう言って下さいましな。
「ありがとうございます」
手術をしないといけない、と言われた当時は、このお医者様を筋違いも甚だしく憎んだことすらありました。そんな患者家族を、先生は辛抱強く待って導いて下さいました。
「手術の前に精密検査をしましょう。心臓に開いてる穴の位置とか大きさとか、手術を前提にね。」
そのあと、
「ただね、認定がおりて全国の患者さんが一気にこの手術を受けたくて病院に来られてるんですよ。
なので検査や手術の予約がとりにくい。ご理解いただけますか」
もやもや病の時もそうでしたが、まおは病院について大変恵まれていました。東保脳神経外科も国立循環器センターも、私の運転で行ける範囲内にありました。
広島から、三重から、埼玉から、北海道から。負担を大きく抱えながら家族ごとで病院に来られる患者さんがたくさんおられる中で、それは本当に感謝すべき事でした。
その感謝を表すために、遠方の患者さんやご家族が来阪しやすい長期休暇を避け、予約をとるようにしているのが常でした。
検査するのが遅れても、秋までに手術が出来れば年明けの中学受験には充分間に合う。
カテーテル手術なら。
続きます。
2014.07.03 (Thu)
モンスター?
手紙。の続き
手紙には、まおらしい小さくて踊るような字が並んでいました。
「昨日ママに買ってもらった服を今日着て行ったら、Sちゃんが、『私と同じ服着て来た!真似した!』って、すごい怒ってきた。」
「まおが、わざとじゃないって言っても、RちゃんやHちゃんとかが一緒になって、『真似すんな!真似すんな!』ってまおの机の周りでおっきな声で言うねん」
「せっかくママが買ってくれたのにそんなん言われて、すごい腹立ったけど、何も言い返さなかってん」
その前日、私は週末にいとこが子どもを連れて遊びに来ることが決まっていたので、その子達にとお土産を買いに近所のダイエーに買い物に行ったのです。
そこで、いとこの子ども達におもちゃなどを買った後、まおにも何か…と思い、何気なく1着だけ買った服のことでした。
「しまった。。。」
私は手紙を読みながら、そんな気持ちに襲われました。
私自身、中学生の頃につまらない事でも冷やかされ、囃し立てられたことが何度もあったので、普段からまおの服は量販店では買わないようにしていたのです。
なににつけても、そういうことのきっかけを作るまいと気をつけて。
誰かとカブらないように、服選びも慎重にしていたつもりでした。
それなのに、 ふと思い付きで買ってしまった量販店の服。
最初に着て行った日に、嫌な思いをさせてしまいました。
私はまおと向き合い、話し合いました。
「それは腹立ったなあ。」
「うん、嫌やった」
「前も何回かSちゃんから嫌なこと言われてたやんな。ママ、学校に行ってSちゃんに怒鳴りたいわ。
まおに何してくれてんねん!って」
「Sちゃんだけじゃなくてな…」
初めて聞く名前が数人。
あぁ、まおはそんなにたくさんの人からの嫌がらせに耐えてたのか…。
「もう許せん!ママは学校に電話して、先生に話したい。どうやろ。まおは嫌かな」
まおは即答しました。
「先生に言って欲しい」
まおがそう言ったのは初めてです。
私はA4のコピー用紙に、話すことを箇条書きにしました。
それをまおに見せ、まおの了承を得て、学校に電話をしました。
これまでまおがされてきた事。
今日、取り囲まれて責められた事。
一学年上の甥やその友人達の証言もある事。
「明日、その子達に聞いてみます」
と言うのが担任の答えでした。
「その子達の保護者に、電話をして下さい。親御さんにも話を通して下さい」
と言うと、
「いや、まあそれは学校で起こったことなので…」
という答え。
「学校で起こった事を、先生は今日こうしてお話するまで気付かなかった訳ですよね。学校だけで解決出来るとは思えません。家庭での聞き取りと指導をお願いしたいんです」
と私が言っても、
はあ…はあ…というばかりの担任に、感情が昂ぶっていた私は
「わかりました、じゃあもう結構です。彼女達の自宅の電話番号を教えて下さい。私からお話しします。」
と。
今こうして文章にしてみると、かなり嫌な保護者ですね。
モンスターと言われても仕方なかったと思います。
担任としては当然
「個人情報ですので…」
「わかりました。こちらで調べます。私が納得出来る話し合いが出来るまで、まおは学校には行かせません。」
そう言って、電話を切ってしまった私。ああ、サイアク。。。
その後、担任と再度話し合い、翌日まおも交えてその子たちと話し合って下さることになりました。
翌日の夕方、担任からの電話。
みんながまおに謝罪し、家に帰って自分のしたことを自分の親に打ち明け、連絡帳に保護者印をもらってくることにした、という返事でした。
「はあ?」
またまた私のモンスターぶりが出てしまう事になりました。
「先生、私がその子どもだったら家に帰って親にこう言います。
『なんか友達とふざけ合ってたら1人が泣いて先生に言いつけた。で、お母さんにこの事を話してハンコもらって来なさいって言うから、ハンコちょうだい』
それだけで、忙しい親は何と無くわかった気になってハンコ押しますよ。クラスメートに嫌な思いをさせた、泣いて帰らせた、なんてわざわざ自分の親になんか言いません。
違いますか?」
また、担任は、はあ…と繰り返すばかり。
「きちんと向き合うことは、しないんですか?それがそこの小学校のやり方なんですか。」
「お母さんの言うことはわかります。でもこれが限界なんです」
ややあって、担任はそう言いました。
「これが限界ですか。わかりました。」
誰の言いぶんも聞いていない、事実確認をして謝らせてハンコもらっておしまい。それが限界というなら、囃し立てた子どもの気持ち、まおの気持ちはどうなるのか。どうやって教育していくというのか。
かくして、その日の夜に1人の女子のお母さんから謝罪のお電話があっただけで、肝心のSちゃんからは何の反省も引き出せませんでした。
まおは変わらず、学校にいくと言います。私は
「もし何かまた嫌なことがあったら、カバンも置きっぱなしでいいし授業中でも何でもいいから家に帰っておいで。
まおに嫌なことをした人は、友達であろうが大人であろうがママが許さない。人をいじめた事、泣いて土下座して謝るほど後悔させてやる」
とまおに言いました。
とても過激な言葉で、まおも
「ママほんまにやりそうやわ~」
と笑っていましたが、気持ちは本当でした。
その翌日、担任はまおに聞いたそうです。
「なんでいじめられた時に、先生に相談してくれへんかったん?なんでお母さんに先に話したん?」
まおは言いました。
「ママが一番わかってくれるから。守ってくれると思ったから」
6年生になり、まおにまた大きな試練がおとずれました。
続きます。
手紙には、まおらしい小さくて踊るような字が並んでいました。
「昨日ママに買ってもらった服を今日着て行ったら、Sちゃんが、『私と同じ服着て来た!真似した!』って、すごい怒ってきた。」
「まおが、わざとじゃないって言っても、RちゃんやHちゃんとかが一緒になって、『真似すんな!真似すんな!』ってまおの机の周りでおっきな声で言うねん」
「せっかくママが買ってくれたのにそんなん言われて、すごい腹立ったけど、何も言い返さなかってん」
その前日、私は週末にいとこが子どもを連れて遊びに来ることが決まっていたので、その子達にとお土産を買いに近所のダイエーに買い物に行ったのです。
そこで、いとこの子ども達におもちゃなどを買った後、まおにも何か…と思い、何気なく1着だけ買った服のことでした。
「しまった。。。」
私は手紙を読みながら、そんな気持ちに襲われました。
私自身、中学生の頃につまらない事でも冷やかされ、囃し立てられたことが何度もあったので、普段からまおの服は量販店では買わないようにしていたのです。
なににつけても、そういうことのきっかけを作るまいと気をつけて。
誰かとカブらないように、服選びも慎重にしていたつもりでした。
それなのに、 ふと思い付きで買ってしまった量販店の服。
最初に着て行った日に、嫌な思いをさせてしまいました。
私はまおと向き合い、話し合いました。
「それは腹立ったなあ。」
「うん、嫌やった」
「前も何回かSちゃんから嫌なこと言われてたやんな。ママ、学校に行ってSちゃんに怒鳴りたいわ。
まおに何してくれてんねん!って」
「Sちゃんだけじゃなくてな…」
初めて聞く名前が数人。
あぁ、まおはそんなにたくさんの人からの嫌がらせに耐えてたのか…。
「もう許せん!ママは学校に電話して、先生に話したい。どうやろ。まおは嫌かな」
まおは即答しました。
「先生に言って欲しい」
まおがそう言ったのは初めてです。
私はA4のコピー用紙に、話すことを箇条書きにしました。
それをまおに見せ、まおの了承を得て、学校に電話をしました。
これまでまおがされてきた事。
今日、取り囲まれて責められた事。
一学年上の甥やその友人達の証言もある事。
「明日、その子達に聞いてみます」
と言うのが担任の答えでした。
「その子達の保護者に、電話をして下さい。親御さんにも話を通して下さい」
と言うと、
「いや、まあそれは学校で起こったことなので…」
という答え。
「学校で起こった事を、先生は今日こうしてお話するまで気付かなかった訳ですよね。学校だけで解決出来るとは思えません。家庭での聞き取りと指導をお願いしたいんです」
と私が言っても、
はあ…はあ…というばかりの担任に、感情が昂ぶっていた私は
「わかりました、じゃあもう結構です。彼女達の自宅の電話番号を教えて下さい。私からお話しします。」
と。
今こうして文章にしてみると、かなり嫌な保護者ですね。
モンスターと言われても仕方なかったと思います。
担任としては当然
「個人情報ですので…」
「わかりました。こちらで調べます。私が納得出来る話し合いが出来るまで、まおは学校には行かせません。」
そう言って、電話を切ってしまった私。ああ、サイアク。。。
その後、担任と再度話し合い、翌日まおも交えてその子たちと話し合って下さることになりました。
翌日の夕方、担任からの電話。
みんながまおに謝罪し、家に帰って自分のしたことを自分の親に打ち明け、連絡帳に保護者印をもらってくることにした、という返事でした。
「はあ?」
またまた私のモンスターぶりが出てしまう事になりました。
「先生、私がその子どもだったら家に帰って親にこう言います。
『なんか友達とふざけ合ってたら1人が泣いて先生に言いつけた。で、お母さんにこの事を話してハンコもらって来なさいって言うから、ハンコちょうだい』
それだけで、忙しい親は何と無くわかった気になってハンコ押しますよ。クラスメートに嫌な思いをさせた、泣いて帰らせた、なんてわざわざ自分の親になんか言いません。
違いますか?」
また、担任は、はあ…と繰り返すばかり。
「きちんと向き合うことは、しないんですか?それがそこの小学校のやり方なんですか。」
「お母さんの言うことはわかります。でもこれが限界なんです」
ややあって、担任はそう言いました。
「これが限界ですか。わかりました。」
誰の言いぶんも聞いていない、事実確認をして謝らせてハンコもらっておしまい。それが限界というなら、囃し立てた子どもの気持ち、まおの気持ちはどうなるのか。どうやって教育していくというのか。
かくして、その日の夜に1人の女子のお母さんから謝罪のお電話があっただけで、肝心のSちゃんからは何の反省も引き出せませんでした。
まおは変わらず、学校にいくと言います。私は
「もし何かまた嫌なことがあったら、カバンも置きっぱなしでいいし授業中でも何でもいいから家に帰っておいで。
まおに嫌なことをした人は、友達であろうが大人であろうがママが許さない。人をいじめた事、泣いて土下座して謝るほど後悔させてやる」
とまおに言いました。
とても過激な言葉で、まおも
「ママほんまにやりそうやわ~」
と笑っていましたが、気持ちは本当でした。
その翌日、担任はまおに聞いたそうです。
「なんでいじめられた時に、先生に相談してくれへんかったん?なんでお母さんに先に話したん?」
まおは言いました。
「ママが一番わかってくれるから。守ってくれると思ったから」
6年生になり、まおにまた大きな試練がおとずれました。
続きます。